Mag-log inホテルのラウンジを出るまで、涙は出なかった。
背筋を伸ばして歩き、エレベーターへ乗る。鏡のような扉へ映る顔は、思っていたより落ち着いていた。 言いたいことを言えた。 荷物の受け渡しも、解約費用のことも決まった。 もう直哉と二人で会う理由はない。 これで終わったのだと思った。 けれどホテルの外へ出た瞬間、夜の冷たい空気が頬へ触れた。 その途端、足が止まった。 胸の奥に押し込めていたものが、遅れてせり上がってくる。 七年間。 初めて手をつないだ日。 婚約指輪を渡され、嬉しくて何度も箱を開けた夜。 忙しい直哉のために作った食事。 会社を辞めた日にもらった花束。 もう使われることのない、二人分の食器。 自分で終わらせたかった。 終わらせられた。 それな企業交流会は、その後も続いた。 帝人さんの周りから人が途切れることはほとんどない。 取引先。 金融機関。 関連会社。 以前一度だけ会った人もいれば、私は初めて見る人もいる。 帝人さんは相手によって態度を変えない。 必要な話は聞く。 必要のない話は長引かせない。 曖昧な提案には、その場で曖昧だと言う。 こういう場所では特に、帝人さんらしさがよく分かる。「皇社長」 次に声をかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。「少しだけよろしいですか」「ああ」 名刺交換のあと、話は来期の共同事業について移った。 私は少し後ろに下がり、内容を確認しながらメモを取る。「こちらとしては、年内に方向性だけでも決めたいと考えております」「年内というのは、契約条件までか。それとも基本合意までか」「できれば契約条件まで」「無理だな」 帝人さんは即答した。 相手の男性が苦笑する。「相変わらず厳しいですね」「厳しいんじゃない。必要な工程を飛ばす気がないだけだ」 帝人さんは資料へ視線を落とす。「これだけ関係会社があるなら、年内に条件を固めるには遅い。基本合意までなら検討できる」「では、その線で一度――」「小春」「はい」「年内で空いているのは」 私は予定を確認する。「基本合意の協議なら、十二月第二週までです。それ以降は海外案件と取締役会が重なります」「なら第二週までだ」 男性が私を見る。「倉橋さんでしたね」「はい」「皇社長の予定は、かなり厳しく管理されているんですね」「管理というより、増やさないようにしています」 つい本音が出た。 男性が笑う。「社長の
翌週の木曜日。 私は帝人さんと一緒に、都内のホテルで開かれる企業交流会へ来ていた。 皇グループの主要取引先や金融機関、関連企業の役員が集まる会だ。 今日は完全に仕事。 帝人さんもいつものスーツ姿で、会場へ入った瞬間から表情が変わっている。「皇社長、お久しぶりです」「先日の件ですが――」「来期の計画について、一度お時間を――」 次々に人が集まる。 帝人さんは相手の話を短時間で整理し、必要なものだけ答えていく。 私は少し後ろで、名刺や予定を確認しながら必要な情報を控えていた。「来月でしたら、第三週以降で調整できます」 そう伝えると、帝人さんが振り返る。「第四週は駄目だ」「海外出張ですね。では第三週で確認します」「ああ」 短いやり取り。 いつものことだ。 少なくとも、私たちにとっては。 しばらくして、ある企業の専務が新規事業の話を持ちかけてきた。「皇さんなら、かなり面白い案件だと思っていただけるはずです」 渡された簡単な資料に帝人さんが目を通す。「規模を広げすぎだ」「ですが、この市場なら先行者利益が――」「それを理由に初期投資をここまで増やす必要はない。需要予測も強気すぎる」 帝人さんは容赦がない。 相手もそれを承知しているのか、すぐに次の説明へ移った。「もちろん段階投資も検討しています。ただ、最初からある程度の規模を取らなければ――」 説明を聞きながら、私も資料を見た。 一つだけ気になる。「帝人さん」「何だ」「これ、初年度から全国展開する前提ですけど、地域を限定した場合の試算はないんですか?」 専務が私を見る。「限定展開、ですか」「はい。需要予測に幅があるなら、最初から全部取るより、地域ごとの反応を見てから広げる
「帝人さん、決まりました?」「まだだ」 向かい側で、帝人さんは真剣な顔でメニューを見ている。 会議資料でも読んでいるような顔だ。「そんなに悩みます?」「種類が多い」「洋食屋さんですから」「ハンバーグだけで四種類ある必要があるのか」「ありますよ」「チーズ、目玉焼き、和風、大根おろし」「楽しそうじゃないですか」「選択肢を増やせばいいというものでもない」「メニューにまで経営判断みたいなこと言わないでください」 私が笑うと、帝人さんは少し不満そうにページをめくった。「小春は」「オムライスにします」「もう決めたのか」「ここに来る前から決めてました」「なら先に言え」「帝人さんの分まで決めるんですか?」「そういう意味じゃない」 結局、帝人さんはデミグラスソースのハンバーグを選んだ。 料理が運ばれてくると、今度はしばらく黙って食べる。「どうです?」「うまい」「よかった」「値段を考えれば、かなり――」「帝人さん」「何だ」「今日は評価しなくていいです」「感想を言っただけだ」「その続きを聞いたら絶対、原価とか回転率の話になります」 帝人さんが黙った。 当たっていたらしい。「普通に食べてください」「普通に食べている」「じゃあ普通の感想を」「小春と来てよかった」 危うくスプーンを落としそうになった。「お店の感想です」「店も悪くない」「順番が逆です」「俺にとっては合っている」 さらっと言って、また食事へ戻る。 本当にこういうところだけは慣れない。 私はオムライスを一口食べて、話題を
金曜日の十八時。「帝人さん、行けますか?」「ああ」 執務室から出てきた帝人さんの手には、仕事用の鞄だけ。 追加の資料もない。「珍しいですね」「何がだ」「本当に仕事を持って帰らないんだなって」「今日は小春と食事に行く」「食事のあと仕事する可能性は?」「ない」「成長しましたね」「だから俺を子供扱いするな」 そう言いながらも、少し機嫌がいい。 私はバッグを持ち、エレベーターへ向かった。「店は決めたのか」「はい」「どこだ」「着いてからのお楽しみです」「なぜ隠す」「帝人さんが事前に調べそうだからです」「調べて何が悪い」「メニューと価格と口コミを全部見て、入る前から評価を始めるでしょう?」 帝人さんが黙った。「しますね?」「店を選ぶ以上、情報を確認するのは普通だ」「今日はしなくていいんです」「小春は確認したんだろう」「しましたけど、私は普通にお店を探しただけです」「何が違う」「帝人さんの場合、視察になります」 エレベーターの扉が開く。「今日は仕事じゃありません」 昨日、自分で言った言葉を返すと、帝人さんは何も言わずに乗り込んだ。 ◇◇◇◇ 連れてきたのは、駅から少し離れた洋食店だった。 大通りから一本入った場所にある、小さなお店。 テーブルは十卓ほど。 白いクロスもないし、入口に案内係もいない。 店先には手書きの黒板が置かれている。 帝人さんが看板を見た。「ここか」「はい」「予約は」「できません」 帝人さんが私を見る。「できない店を選んだのか」
月曜日の午後。「小春。金曜の夜を空けろ」 執務室からいきなり言われて、私は予定表を開いた。「何か入りました?」「入った」「どちらの会社ですか?」「会社じゃない」「会食?」「違う」「財界関係ですか?」「違う」「では何です?」 帝人さんが私を見る。「食事に行く」「誰と?」「小春と」 指が止まった。「……私?」「ああ」「仕事ですか?」「違う」「じゃあ、どうして予定表に――」「まだ入れていない」 私は画面を確認した。 本当に空白だった。「金曜の夜は空いているだろう」「今のところは」「なら俺と食事に行く」「決定なんですか?」「誘っている」「今の言い方のどこがですか?」「小春が嫌なら断れる」「そこだけ聞くと誘ってるんですけどね」 帝人さんは少し考える。「小春。金曜の夜、俺と食事に行かないか」「急に普通になりましたね」「これならいいのか」「最初からそう言ってください」「時間がかかる」「数秒ですよ」 私は予定表を閉じた。「でも、どうしたんですか?」「何がだ」「この前もホテルで一緒に食事しましたし」「あれは仕事だった」「半分くらい途中から仕事じゃなかった気もしますけど」「今回は最初から仕事じゃない」 きっぱり言われる。「何かお祝いとか?」「ない」「相談?」「ない」「では、ただ食事に?」「ああ」 帝人さんは当然の顔をしている。
金曜日の十八時十二分。 私は予定表を確認して、思わずもう一度時計を見た。 会議はすべて終了。 追加の来客なし。 今日中の決裁も残っていない。 未処理の案件は、月曜日へ回して問題のないものだけ。「……終わった」 小さく呟く。 珍しい。 とても珍しい。「小春」 執務室から呼ばれた。「はい」 入ると、帝人さんは最後の資料を閉じたところだった。「これで終わりだ」「本当に?」「何だその反応は」「念のためです。机の引き出しから新しい資料とか出てきませんよね?」「出てこない」「電話して会議を増やしたりも」「しない」「関連会社へ突然――」「小春」「はい」「今日は終わりだ」 帝人さんが少し呆れたように言った。 私は時計を見る。「十八時十五分にもなってません」「ああ」「すごいですね」「何がだ」「予定どおりに全部終わりました」 帝人さんの眉がわずかに動いた。「俺が予定どおり動けば珍しいのか」「かなり」「失礼だな」「この前まで、空いてる時間を見つけると仕事を入れてた人が言います?」 帝人さんは否定しなかった。 代わりに私を見る。「今週は、小春がかなり止めたからな」「止めましたね」 最初から帝人さんを出さなかった会議。 担当役員へ戻した案件。 急ぎではないのに急ぎとして持ち込まれた確認。 帝人さんがやれば確かに早い。 けれど、その人にしかできない仕事は他にもある。「来週もこの調子でお願いします」「毎日十八時に終わるとは言っていない」







